八「池の主(ぬし)」
- 心一 萩坂
- 7月8日
- 読了時間: 5分
更新日:7月30日
宮前尋常高等小學校副読本 『郷土之お話・上之巻』 昭和8年度(1933年度)
八 池の主(ぬし)(宮前村梶ケ谷 池の谷戸)
竹薮(たけやぶ)のわきの草ぶき家の庭に、籾(もみ)が乾かしてあります。家の中では、障子(しょうじ)を開け放しにして老婆と子供が何かしきりに話をしています。
昨夜、雨が降ったせいか、空がきれいに澄んで誠によいお天気。向こうの丘の林が黄に赤に飾られて、それが暖かい日の光を受けて錦(にしき)のように美しい。裏の井戸端の柿の木は、葉が紅(くれない)に彩られて青空に浮いているのは、まるで絵のようです。前の広い田んぼには、稲の穂先が重そうに垂れて、そよ吹く風に黄金の波をただよわせています。
百姓は、あちこちで稲刈りや稲こきをやっています。孫は十位の女の子で、しきりに雀を追いながら、大きな古ぼけた老眼鏡をかけて、縫物(ぬいもの)をしているお婆さんの話に耳を傾けています。
「お婆さん、もっと面白いお話をしてくんなよ。」
「ええ、お前の言うことだ、どんなお話でもしてやるべえよ。どんな話がいいかね。」
お婆さんは眼を細くして、笑いながら孫を見やった。
「おらあ、どんな話でも面白くさえありゃいいんだ。」
「そうか、じゃ、あれにすべえかね。お前、この少し先の池の谷戸の話、知ってねえだんべえ。そりゃ、不思議な話があるんだよ。」
お婆さんはこう言って、次のような話をしました。
× × × × × × ×
昔、梶ケ谷のあの池の谷戸には池がありました。それはそれは大きな池で、こちらの岸から向こうの岸は、はっきり見えない程の広さでありました。
ところが、この池には池の主だという大蛇が棲んでいるという事で、誰も一人ではこの池の端へ近寄る者はありませんでした。
この池の下には、一軒の家がありましたが、ある晩、そこの家のお婆さんが一人で留守番をしていると、軒の下でかすかな人のいびきが聞こえます。
「はて、おかしいな。今頃、こんな人里離れた所へ来る者はない筈(はず)だが、それにしてもあれは確かに人の寝いびきらしいが。」と、そのお婆さんは自分の耳を疑いながら、首をかしげてじっと聞き入りました。
夜は風一つない静けさで、木の葉のすれ合う音さえありません。
「スウ、スウ。」、確かに人のいびきです。
「はて、まあ、この夜更けに誰だろう。」
なおもじっと耳をすまして聞いていましたが、何だか気味悪いので、立って戸を開ける気にもなれません。いろいろ考えている中に、だんだん怖くなってきました。怖くなるにつれて、そのいびきが変になって、どうも人間らしくないような気かしてきました。
グルグル、ゴロゴロ、・・・ ・・・ ・・・ ・・・
お婆さんは、いつまでもこうしていても仕方がないと思って、おののく足を踏みしめ、やっと元気を出して恐る恐る座敷の戸を細目(ほそめ)に開けて、いびきのする方を見やりました。
すると、まあ驚くじゃありませんか。そこには、水もしたたるような、それはそれは美しい女が寝ています。朧(おぼろ)月夜ではありましたが、その姿がはっきりと眼に映(うつ)りました。
身の丈ほどの長い髪毛(かみげ)を振りほどき、顔はむしろ青い程すきとおっています。首筋は雪のように真白で、その姿は天女(てんにょ)のようでした。
お婆さんは、今までこんな美しい女を見たことかありませんでした。全く我を忘れてその女の寝姿に見とれていると、まあ、不思議ではありませんか、その女がむくむくと起き上がり、
「この事を誰にでも話したら、承知しないぞ。」と言ったかと思うと、忽(たちま)ち雲をつくような大蛇の姿となり、耳まで裂けた大口から焔(ほのお)を吐(は)き、眼からは稲妻(いなずま)のような光を放ち、鱗(うろこ)を銀のように光らせながら風を呼び、凄い唸(うな)り声を出しながら渦巻く池の中へ踊り入りました。お婆さんは、腰とあごを抜かしながら座敷へひっくり返りました。
× × × × × × ×
「お婆さん、おらあ怖いよ、そんな話。」
「そうかね、だが、まあお聞き。ちっとも怖かあないんだから。」
お婆さんは、また語り統けました。
× × × × × × ×
ところが、それから数日経って、村の腕白(わんぱく)な子供達が大勢してその池の縁を通っていると、そこに一匹の小さな蛇が寝ていました。いたずら盛りの子供達なので、
「やあ、この野郎。ぶんなぐれ。」と、わいわい言いながら、石ころや棒きれでさんざんにその小蛇をぶんなぐりました。そして、それを池の中に投げ込みました。
すると、その小さな蛇は忽(たちま)ち向こうの岸へ届く程の大きなおろちに変わり、白い腹を横たえて浮かび、とうとう死んでしまいました。
村の人々は、後のたたりを恐れ、小さな祠(ほこら)を建てて、その主をまつりました。そのためか、その後、何のたたりもなく、村の人々もいつしかこのことを忘れてしまいました。
× × × × × × ×
「ああ、よかった。おらあ、安心したよ。今度は、別な話をしてくんなよ。」
「ああ、でもお茶の支度(したく)をしなくちゃあ、今にお母さんたちが野良(のら)から帰って来るべえから。」
裏の柿の木から、烏が二羽、鳴きながら飛び去りました。
【注】 天女=天上界に住むという女。 稲凄=いなびかり。 縁=そば。
おろち=きわめて大きな蛇。 野良=田畑等の仕事。
若干の解説 萩坂心一(かわさき民話を愛する会会長)
昨年からの一連の取り組みは、昭和8年度刊行の『郷土之(の)お話』の内容を正確に記すことが目的ですが、現代仮名遣いへの移行をはじめ、今の子どもたちにも読みやすいように「ルビ」や「注」を施しています。
今回は『郷土之お話・上之巻』の八番目に出てくる「池の主」を取り上げました。お婆さんと孫のやり取りに、昔話を語り継ぐ日常が垣間見えます。蛇は、農業の守り神=水神として崇められてきたこともよくわかる昔話ですね。
昭和8年、日本が戦争の拡大に傾きつつある頃ですが、そんな時に地元の昔話に着目して、独自の「副読本」を作った宮前尋常高等小学校の先生たちの思いを、これからも探っていきたいと思います。皆さんからもご意見をお寄せいただけると嬉しいです。
(2026年7月記)
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